今日は朝っぱらから更新。
また「どこでもない場所」を見つけてしまった。チャールズ・シミック『世界は終わらない』。シミックユーゴスラビア出身で、現在はアメリカで執筆を行う詩人。翻訳者の柴田元幸氏はこの本の序文でシミックの詩の特徴を簡潔かつ的確に表している。少し長くなるが引用すると、

深刻な芝居とゴキブリ、豚と天使、墓掘りの上手な二匹の猿、…(中略)…こうした突拍子もない発想や組み合わせが、シミックの詩のトレードマークである。たしか誰かが、シミックの作風を「ホームスパン(手作りの)・シュルレアリスム」と定義していた気がする。「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘との出会い」とは、シュルレアリスムとは何かを伝える上でしばしば引用される有名なロートレアモンの言葉だが、シミックのシュールはそれに較べてだいぶ素朴であり、庶民的で、民話風である。

と言っている(p10-11)。この辺りのシミックの感性というか世界観は、柴田氏が訳したバリー・ユアグローやグレン・バクスターなどにも通じるものを感じる。ユアグローはいわゆる超短編バクスターはイラスト中心という違いがあるのだが…。
で、話を戻すと、「どこでもない場所」というのは、この本のp81「福音」と題された詩の冒頭、

どこでもない場所への道のりの途中―

というふうに出てきた。さらに読み進めるとp101冒頭の詩にも、

こうして私たちはどこでもない場所に着く―

とある。この間(id:pee450:20031030#p1)の川上弘美「婆」に続いて、再び「どこでもない場所」にめぐり合ってしまった。これを運命の悪戯と言わずして何と言おう!とまでは興奮はしなかったけど、こういう些細なことは結構喜びがあるものだ。前回も言った通り、どこでもない場所というフレーズがかなり一般的に用いられるのはおいとくとして、本を読んでいる時に、固有名詞でもないし一般名詞とも言えない言葉と自分に関係した事物が一致するというのは、かなり嬉しいことのような気がする*1
さらに、悪乗りすることにして、タイトルの下にシミックの101ページの詩の冒頭を英語で引用してみました。柴田氏が訳注で指摘していたが、通常はNowhereのNが小文字のnになって全体として「これだけ頑張っても何にもならない」の意味だそうです。
そういうわけで僕はどこでもない場所に着いたのだ。

*1:もちろん翻訳は柴田氏によるものであり、「どこでもない場所」というのもNowhereの訳語でしかない、というのは当たり前のことだが…